江戸時代

児島湾を中心として、干拓地での塩田や綿づくりが盛んに行われていた江戸時代。低い山並みが地域を縦横に走り耕地が貧しかった児島では、農作業の合間を縫って綿を加工して紐や布地を作るようになっていった。こうして児島地区の綿織物はこの地の基幹産業となり、海の恵み「いかなご」「塩」の白、そして「綿」の白を合わせて「児島三白」と呼ばれ、その名を全国に知られるようになった。
 

1785年(天明4年)

播州高砂工楽松右衛門により近代的な太糸の木綿を使った、厚地広幅の丈夫な帆布を織り上げる織機が発明される。 瞬く間に全国に普及し、以来「松右衛門帆」と呼ばれ、長い間日本の水運を支える。

1814年(文化11年)

藍染に用いられる藍玉を京都へ売り出すため、藍玉売りさばきの許可を得る。藍の本場、阿波国に負けないよう大量の藍玉が作られ、染め物を業とする紺屋が誕生し染めに出す糸や布も盛んに造られた。

1818年(文政1年)

児島地区で作られた布地や帯地は、雲斉・小倉織・真田紐の魅力が評判となり、瑜伽大権現門前町の土産物として全国からの参詣人に買われて行った。 農業の余暇であった綿作りは、片手間な仕事ではなくなり、急激な発展を遂げていった。

1814年(天保12年)

児島郡内の小倉織生産が飛躍的に伸びる一方、品質や販売価格が無統制で、ばらばらだったために、中には粗悪な品も交じっていた。 赤穂城主でもあった池田長政は、品質の管理を取締り、抜け売りや小売りを禁止。 そして権威をもった規格品をつくり、これには「池田家御産物」と銘を打った。

1867年(慶応3年)

薩摩藩がイギリスより紡機を輸入したことから、日本最初の機械紡績所として鹿児島紡績所の操業が開始される。